――映画人生50年、日本映画界屈指の名キャメラマンである木村大作氏が、初の監督として、ついに完成させた映画『劔岳 点の記』。6月20日公開に向けて、早くも話題となっているが、今回、この映画の完成後、個人の発想で、自費で車を購入し、プリントを積んで全国47都道府県をひとつ残らず回るという前代未聞のキャンペーンを実施。その“個人全国キャンペーン”を終了された直後の4月28日に木村監督のご自宅にて、映画の企画から完成に至るまでの経緯や、全国を回られて感じた観客の反応など、ご自身の感想も織り交ぜた率直なお話を伺った。
自分の手で観客に届けたくて全国を回ったんだ。
――キャンペーンお疲れ様でした。
いや、疲れたよ。普段はめったに疲れたなんて言葉は吐かないんだけれど、人と接するのは相当しんどかったね。でもさ、これはいろんな人の反応が分かることだから楽しい疲れだけれどね。
今回はこのために自分で買った宣伝車にプリントを積んで、1月26日に東京を出発して、27日にまず立山連峰のある富山から始めてさ、各県を回っていくんだな、長い移動だと300kmくらい走ったりするし、沖縄なんか、フェリーで51時間もかかったりしたんだ。それでまずその土地に着いて、映像のチェックをして、試写会の頭で挨拶をする。それから帰りには握手をしたりして見送っているわけですよ。で、関係者と打ち合わせをして、ホテルで休むのがだいたい12時くらい、次の日には新聞社やテレビ局へ行って取材を受ける。各県とも平均して6社くらい受けているからね、媒体だけでも400くらいの取材を受けているんだ。それは相当なことだよな。
—取材ではどんなやり取りをされるんですか?
まず一番には「この映画はどういう映画ですか?」って言われることがあるじゃない。その時は「ただ地図を作るためだけに、黙々と与えられた仕事に献身した人たちの話なんだ」と答えるよ。そして、「俺は映画を作るためだけに献身しているけれど、あなたは?」ってこうやるわけだ。「新聞記者として献身していないの?」ってね。そうすると「献身しています」と、そこで俺は「じゃあ、自分の映画じゃないか?」とやる。そういう形で相手の気持ちに訴えていく。ありがたいことにだいたい事前に観てくれているようだからね。「この映画の見所は?」っていう話は一切していないんだ。
――試写を観た方の反応はどうだったんですか?
実際反応はすごいよね。今回の試写では、○×のアンケートはやめさせて、白紙の紙と小さなボールペンを付けて感想を書いてもらったんだけれど、「小さくて書ききれません」なんて書いてあって、びっしり埋めてくれている人も結構いたね。ほとんどの人が「2時間19分があっという間でした」って言う言葉や、映画の中の「何をしたかではなく、何のためにしたか」っていうセリフが印象に残っているとかで、「この言葉が響きました」っていったことも随分書いてあったよ。
――地域によって違いはあったんですか?
会場の反応で、同じ冗談を言っても盛り上がるのと、真剣に聞かれてしまうということなどの違いは、東と西とであったけれど、共通して言えることは、この映画が「日本人の原点の心を描いている」ということだったね。反応については大きくまとめるとだね、「驚き」と「感動」かね。「驚き」というのは映像についてだと思うんですよ。「感動」は、ドラマと人物像について。
「淡々と進んでいるドラマなのになぜこんなにじわじわと感動してくるのでしょう?」とか、「いままで待ちわびていた映画です」とかね。「ただ一度の監督だなどといわないで次回作を」というのもあったね。直接の話では大学生がこういったよ。「自分は医者になって、お金を儲けていい車に乗って喜ぶような生活をしたいと思っていましたが、この映画を観てそれではいけないと感じました。医者になるのは同じでも、人々に献身しなければ生きている価値がないと学びました」ってね。これには俺も90度のお辞儀で返したよ。また、「これから社会に出て行くにあたって、自分に与えられた仕事を一所懸命やっていくことでしか道は見つからないんだと教えられました。明治の人はあんな過酷な状態でもやっていたんだなとこの映画を観て教えられました」と17歳の女学生から言われたよ。年配の方にはさ、「何をしたかではなく、何のためにしたかという言葉が残りまして、明日からもう一回自分は何のために生きていくかを考え直します。それが見つかるといいんですけれどね」。やっぱり年配の人は自分も人生の重い荷物を背負ってきているんだよな。最後には「今こんな映画を作ってもらってありがとうございます」って感謝の言葉が添えてある。我々も観に来てくれてありがとうっていうやり取りの連続だよ。
だからね、観た人にもまだ観ていない人にも、「何かを感じるはずです。この映画は」と言っているんだ。
映画が生活のすべて。非常識の中に身を置いているんだ。
――伺ったご自宅は、カーテンが閉められ、ぼんやりとしたスタンドの照明の中、映画関連の書類や書籍や本、それから壁の写真やポスターしか目に入らない。木村監督はソファーに深く腰掛け、正面の80インチのスクリーンを眺めている。
今までの人生の中で、すごい大自然を見てきているからね。その窓を開けたからって、開放感を味わうことが出来ないんだ。それに、この歳になってくるとさ、俗的なものや生活感のある日常だけで人生を終わってもつまらないという気持ちがあるんだね。我々の商売は待ちだからね。仕事が来なければこの部屋でじーっとしていることもあるわけだね。それじゃいかんということで、35mmのアリフレックス2Cを持っているので、一人ぼっちで何の目的もない撮影旅行に出かけることをしているんだけれども、この行動をするといろんな発想が生まれるんだな。
――今回ご自宅に伺って、撮影旅行や過去の作品からご本人が権利を持つ25年にわたるライブラリ映像を見せていただいた。
そういった撮影旅行でのものや過去の作品から権利を交渉してもらってきたフィルムをさ、『詩情を撮る』という題名をつけてまとめたものなんだ。全部俺の権利所有のものだよ。それをコダックと東京現像所にも協力してもらってね。編集してDVDにしたんだよ。俺という男がこれまでキャメラマンで何をやってきたか?というと、要約すると「自然の中の人間ドラマを撮っている」ということになるんじゃないかな。
――すべてフィルム撮影されたというその映像は春から始まり、四季折々の表情が映されていく。俳優もナレーションもなく、全編をバッハやビバルディなど監督自身が選曲したクラシック音楽がそれを演出していく。
雲一つとってもいい表情を出しているだろう。自然が訴えてくるんだよな。 だいたいこれまでの映画人生の中で、俺の代表的なキャリアになっている作品は大自然の中の人間ドラマなんだよな。だから暇が出来るとキャメラを積んでふらっと出かけちゃう。この映画の企画を発想するきっかけになったというのも、2006年の2月に出かけた撮影旅行なんだね。
実際の劔岳を眼前にして原作を読み返したら、自分の人生を全て重ね合わせられるなって感覚がしたんだよ。
――その時はどちらに?
前の年に男鹿半島に行っていて、また日本海を撮りたくなって、今回は能登半島に出かけたんだ。 例の『詩情を撮る』のカットを増やそうとも思ってね。で、10日くらい居たんだけれど、良い波が出ないし、天気予報もしばらくはだめみたいな感じだったので、東京に帰ろうと北陸道に乗ったんだ。そしてしばらく走ると右手に立山連峰がでっかく見えてきたんだ。行きにも見ていたんだけれど日本海を撮ることしか頭になかったので気が付かなかったんだけれど、ふと以前読んだ新田次郎原作の「劔岳 点の記」を思い出して、実際の劔岳はどんな山だか拝んで帰ろうかと思ってね、立山インターで降りて、上市町というところであちこち撮影ポイントを探したんだ。それで、その日は滑川で泊まって、翌朝、朝焼けの劔岳を撮影したんだな。そして、早く帰っても仕方がないので車に積んであった「劔岳 点の記」をもう一度その場所で読み返したんだよ。その時に、点の記ってなんだろうと思い返してね。それは地図を作るためのいわば航海日誌みたいなものでね、「何月何日、浄土山、霧のために測量できず」とかさ、そういったものの記録なんだよ。そこにいわゆる現代風のドラマ性はないんだけれど、目の前の大自然を見ていたこともあったのか、あの中に俳優を連れて行ったら、それこそその地図を作る黙々とした献身的な作業でもさ、「自然がドラマを作ってくれるんだ」と思ったんだね。これは今の時代にやるべき映画ではないかと思ったんだよ。原作を読んでみるとこの小説では“誰も死なない”、“誰も病気にならない”、“悪人はいない”。陸軍省は組織としての悪はあるけれど個人は善人だよ。それで映画を作るというわけだから、これは現代の映画に対しての挑戦かもしれないな。でもさ、さっき見てもらった『詩情を撮る』を時々ここで黙って見ているとさ、この大自然が描き出す映像に人物を重ねたら、なんかすごい映画が出来るんじゃないかって思うんだよ。それが実際の劔岳を目の前にして原作を読んだときに映像としても浮かんできて、これを映画に出来るんじゃないかと思ったんだよね。
――そもそも映画に対する木村さんのアプローチが違うのではないですか?
そうかもしれないね。 測量というのはさ、地図を作るために献身する作業で、我々は映画を作るために献身しているんだ。測量と撮影とは似ているところもあるからね。重い機材を背負って山を黙々と登って、目的地に着いてそこからが仕事なんだ。キャメラを立ててレンズを覗いたりする仕事の佇まいも似ているんだな。
それに、過酷なことに挑戦しない限り、成果は得られないわけだ。自分が映画人生の中で成果とされているのはさっきも言った通り、大自然に対して過酷な条件の中で挑戦をした結果得られているものだと思うんだな。そうしないと熱い思いも伝わらないんじゃないかという気持ちもあるんだよ。だからこれを映画にすることは、自分の人生を全て重ね合わせられるなって感覚がしたんだよ。
この原作を映画にしたいから、監督をやったんだ。
――これまでの映画人生の中で監督もやってみようという気持ちはあったんですか?
どんな映画人でも一度は考えることだと思うんだけれど、俺は黒澤組にいたからね。黒澤さんを見たら誰も自分が監督をやろうなんて思わないよ。
今回の映画はさ、最初3年かかると考えていたんだ。それで、坂上順さんにそう言ったら、それはいくらなんでも難しいと。本当なら1年で何とかしてほしいけれど、内容からして分かるから2年でやろうとなったんだけれど、それでも、200日くらい山に入らないと撮れない。しかも本当の場所にこだわって作るとなると、相当危険も伴うし、困難な道のりになる。そんなものを好んで監督をしてくれる人は誰なんだろうと考えた時に、俺がやるしかないかと考えたことが監督をやる原因だね。
だから監督をやりたいから『劔岳 点の記』を選んだんじゃなくて、これを映画にしたいから監督をやったんだよ。 これを映画化するにあたって、「なんでそんな無理をするんですか?もっと楽に作ればいいじゃないですか?」って言われたことがあったけれど、楽に映画を作ってはだめだと思うんだな。これは古い考え方かもしれないし、今までの人生を振り返ってみても思うんだけれど、過酷なところに行かない限り美しいものは撮れないよ。美しいってことは人の心が入っていることなんだ。困難なところに立ち向かわないで、人を感動させる映像を撮れるとは、全く思っていないんだ。だから明治40年に柴崎芳太郎さんがこの近辺で取った行動をだいたい日にちも違えずにやっているよ。もちろん当時と天候などは違うけれども、ほとんど同じような日々を山の中で過ごしているわけだ。そこまでこだわっているんだな。
映画人生を賭けて、本気でやろうという姿勢を山の人たちに示したんだ。
2006年の2月に行った撮影旅行の機会にこれを映画化しようと考えてから、いろんなところを歩き回ったんだよ。山の中をシナハン、ロケハンでね。こういう小説を映画化しようと考えてるって、説明をしたって、最初は誰も相手にしてはくれないと思ったね。その年の6~8月はよく山に入ったな。特に8月はね。夏は山小屋もハイシーズンだから、いっぱいになっちゃうんだけれど、どうしても居たくて、従業員の泊まる場所に泊めてもらっていたんだ。そこに一人で泊まって朝6時頃には朝飯を食べて出ていく。そしてうす暗くなる頃帰ってくるような生活を毎日していたら、少しずつ山の人たちの接し方も変わってくる。「今日はどこに行ってきたんですか?」なんて話しかけられるようになってね。毎日出かけて、天候が悪い日は食堂の隅で黙々とシナリオを書いている。そんなことを一番長い時で3週間続けたよ。どうしても地域の人とか山の人たちっていうのは、映画業界に対して遠い存在に感じているだろうと思うんだ。それがちょこっと顔を出しただけで、映画化の話をしていくと、「また詐欺師みたいなのがやってきた」って思うんだろうよ。でも少しずつ変わってきたね。すると今度は自分を信用してくれても実際に企画が成立するかどうかということが問題になってくるわけだよね。「結局ダメでした。この企画にはお金を出してくれる人はいませんでした」ってこともありうるんだから。
企画が成立しなかったらもう仕方がない、謝ろうと思っていたんだ。山小屋でも以前にテレビの企画などでこの原作の映像化についていろいろ話はあったようなんだ。でも、撮影にあたって無理なことを最初から言われたりして、散々な目に会っていたようだ。俺たちは「来年からやりたい」って話をしたら、真剣なんだっていう風にそのあたりから感じてもらえるようになったね。
――で、実際に企画が成立していくのは?
命を賭けるって言ってもさ、誰も信用しないわけだよ。具体的にどういうことを見せなきゃいけないんだと。個人が考えた企画なんてそのくらいの覚悟を示さない限り誰も乗ってこないよな。ここが企画成立にあたって一番の勝負どころだと思ったね。そして今度は役者だね。彼らだったらこの仕事を受けるだろうと考えて、浅野忠信さん、香川照之さんの2人にそれぞれ会いに行ったんだよ。もちろん結果として引き受けてくれた。この2人は拘束2年だよね。浅野さんなんかは2年あったら5本主演できたかもしれない。でもね、なぜ参加してくれたか考えるんだけど、おそらくこういった仕事に飢えていたんじゃないかと思う。ここまでリアリティを求めた現場にね。
最大の演出は、ありのままを撮ること。順撮りと本当の場所に行くってことだよ。
――実際の測量隊が辿った場所まで行かれたそうで、大自然相手に苦労も多かったのでは?
よく演出とは何か?って聞かれるんだけれど、この映画において俺の最大の演出は、順撮りで、しかも本当の場所に行くということなんだ。明治40年に行われた測量の足跡を、現代において、撮影隊として参加することで追体験する。柴崎芳太郎が立った場所まで浅野さん、香川さんは、9時間かけて歩いて行くんだよ。スタッフは40kgの荷物を背負って歩いているんだ。そんなときに東京で考えていることなど全部吹っ飛んでしまう。最初は黙々と人生のことなんて考えながら歩いているけれど、途中からは無の境地だね。それで、現場に立ってもらう。役者の髭を見てもらうと分かるけれど、あれも本当に伸びたものだ。一般の人からもほとんど俳優さんの素が出ていますねって言われたことがあるよ。
浅野さんは終了後に「もしこの役を他の俳優がやっていたら、悔しくて許されない」、そして「この役は自分にしかできません」と言っていたよ。
よく技術論を言われるけれど、技術では何も撮れません。理屈で考えたって駄目だよ。そこに自然があって、それを画にしようと思う時に初めて技術が必要になるんだな。
――撮影されたフィルムは全部で約14万フィートでした。
そのうち50D(5201)が8万フィート以上、全体の60%を占めたわけだね。これだけ50Dを多用している映画って他にそうはないと思うよ。みんな絞りを欲しがるからね。基本は大自然を美しく撮りたいわけだから50Dをメインで使った。そもそも自分は感度100のフィルムで育ってきたから、感度50だとメーター無くても自分の頭の中で風景見てたら絞りはすぐに出てくる。自然の一番いいとき撮るならやっぱり50Dだろうな。今回の作品も50Dが大自然の四季折々をしっかり捉えてくれて良かったと思ってる。どうしても絞りが足りないところには250D(5205)を使ったけどね。
――今後の予定は?
よくインタビュアーは、「次回作の構想は?」とか聞くんだ。そんなものないんだよ。今は6月20日の公開のことしか頭にないからな。 ただ、7月には劔岳に登ろうと思っているんだ。この作品を撮れたお礼参りってこともあるんだけど、何も考えないで登りたいんだ。頂上に行けばまた何か出てくるだろう。
――柴崎芳太郎が劔岳登頂に成功したのが、1907(明治40)年7月13日、木村監督の誕生日と同じであり、この映画の企画決定が、柴崎の登頂からちょうど100周年、そして公開が木村監督の70歳という節目に当たるというのを因縁に感じずにはいられない。
この映画は、大自然が、そして、人と人とのつながりが、木村監督という人物を媒介して生み出させた“奇跡の映画”である。
『劔岳 点の記』 原作:新田次郎「劔岳 点の記」(文春文庫刊) 製作:坂上順、亀山千広 脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正 撮影補佐:坂上宗義、山田康介 製作統括:生田篤 製作プロダクション:東映東京撮影所 配給:東映
2009年6月20日(土)全国ロードショー © 2009 「劔岳 点の記」製作委員会 |
| ● Profile. きむら・だいさく |
| ■ 1939年7月13日生まれ。東京都出身。 ■ 1958年 東宝撮影部にキャメラ助手として映画界入り。73年『野獣狩り』(須川栄三監督)で最初の撮影を担当。以後、日本映画史に残る数々の名作を担当。09年『劔岳 点の記』で初めて監督を務める。 ■ 主な代表作:『八甲田山』(77年、森谷司郎監督)、『復活の日』(80年)、『火宅の人』(86年、以上、深作欣二監督)、『誘拐』(97年、大河原孝夫監督)、『時雨の記』(98年、澤井信一郎監督)、『駅 STATION』(81年)、『居酒屋兆治』(83年)、『あ・うん』(89年)、『鉄道員(ぽっぽや)』(99年)、『ホタル』(01年)、『赤い月』(04年)、『憑神』(07年、以上、降旗康男監督)など他多数。 |
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